看護

チーム医療

結論

組織の欠点を最も理解しているのは、末端の人材

末端の人材が主体的に行動すれば、組織は変わる

できないのは、教育の問題に加え上司の問題が最も大きい

チーム医療

最近、最強チームを作る方法を読んだので、なんとなく書いてみようと思う。

チーム医療の定義とは、様々あるでしょうが1つは、職種を超えたつながりがあります。

病院は専門家集団の集まり

特に病院の場合は、その多くが国家資格で形成された専門家集団です。

一般の組織では、おそらくこれほどまでには細分化されておらず、資格とっても国家資格ではありません。

ところが医療業界では、この「資格」がよく邪魔をしています。

医師がトップでなければならないというヒエラルキー構造

まず、医師がトップでなければならないというヒエラルキー構造があります。

以前は、パターナリズムと言って医師に逆らうことはできず、医師に言われたことをすべて受け入れるのが風潮とされていました。

最も、医師側もパターナリズムは自分が正しいと思って(良かれと思って)やっていることですが、その多くは知識不足であったり現状にそぐわない行動であったりしたわけです。

ヒエラルキー構造の最たるものは、病院の長である院長は医師しかその地位につくことはできません。

医師は、医療職集団のトップであり、医師であればすべての職種の仕事を行ってもよいとされています。

ところが、医師の多くは特定の医療のことに関しては長けていますが、組織マネジメントという観点からは多くの方が素人ということになります。

もちろん、独自に勉強され大学院などで組織マネジメントを学ばれている方もたくさんいらっしゃいます。

医師や看護師の離職は何故おこるのか

その組織がうまく行かなくなり、大量の離職に至るということは近年では特によく耳にします。

以前は、大量の離職は割と大事でしたが、最近は「またか」という程までに日常のニュースに成り下がっています。

日常のニュースになっていると感じている、わたしのような第三者にとってはそれはどうでも良い話です。

しかしその病院で患者さんとなりうる人にとっては、いい迷惑です。

さらに、残された人にとってもしわ寄せは当然多大なものとなります。

例えば、代わりに医師が入ってきたとしても、また一からルールなどを教える必要があります。

大量離職の人財は優秀な人財であることが多い

そして、大量離職を選択される方々の多くは、医学界からすると貴重な人材であることがほとんどです。

なぜなら、そのような「行動」に移す事ができる人材だからこそ行動力があり優秀といえます。

何も考えずに、組織の意向に沿って働く多くの組織人にとっては、そんな面倒を起こしたくありませんので、通常は言うことを受け入れます。

飼い犬の主体性

これは、飼い主に飼われた犬と同じです。

犬もきちんと教育すれば、とっさの判断で飼い主を助けれくれるはずです。

しかし、指示がなければ行動できない犬の場合は、何もしてくれないでしょう。

例えば、飼い主が散歩中に倒れた場合、指示に従順に従う飼い犬であれば、指示があるまでは行動しないでしょう。

一方、緊急事態の際は自分で考えて行動することのできる犬であれば、リードを引きずりながら助けを呼ぶことを選択するでしょう。

ここまでは、医師を中心としたヒエラルキー構造と、主体性の一部について書きました。

次に、教育の在り方について書いてみようと思います。

教育の在り方

教育と躾

教育とは、躾(しつけ)とは異なります。

躾も教育の中の1つではありますが、教育の目的は主体性をもたせることです。

では、賢さとは何なのでしょうか。

わたしの場合は、賢さとは自分で考えて行動できる事だと思います。

つまり「問いを立てる」ということです。

医師の場合は、出された問題を解くのはとても得意ですが、問いを作るのは割と苦手かもしれません。

主体性とは

では、主体性とは何なのでしょうか。

自主性とは異なるのでしょうか。

わたしは、「主体」があるということは、他者に影響を与えることのできる行動だと思います。

自主性の場合は、自分自身で他社のことを考えずに行動する行為だと思います。

つまり、主体性とは組織や集団の中で如何にリーダーシップを発揮することができるか、というところに落ち着くのでは無いかと思っています。

リーダシップ

リーダーシップとは何なのでしょうか。

リーダシップとは、生産性に通じるものです。

特に日本人は、生産性よりも働いた時間に重きを置きがちです。

例えば、残業代はその最たるもので、仕事ができない人に多くの給与を支払うのは多分間違っていると思います。

もちろん、残業をしなければならない日もあるでしょうが、毎日毎日残業をして残業代を支払うというのは組織の生産性は極めて低いと言わざるを得ないでしょう。

生産性にそぐわない給与形態

給与の面では、1年目の新人と5年目の中堅と15年目のベテランでは、その役割や実施できる内容も様々です。

ところが、組織においては1年目と15年目では、給与という側面からすれば、それほど大差はありません。

仕事や生産性という観点からは、1年目と15年目では天と地ほどの差があります。

さらに、教育として15年目は1年目に時間を割いて教える必要もあります。

これだけのことをしているのに、給与面では評価されません。

これは、何でなのでしょうか。

診療報酬と給与

これは、診療報酬が大きく絡んでいます。

医療の場合は、3割が自己負担で大病院に入院している重症患者さんの場合は、高額医療費により国から多くの補助が出されています。

財源は当然、税金ということになります。

この税金を使って、診療報酬という形で病院は収益を得ています。

例えば、1年目の医師でも、10年目の医師でも診療報酬は多分同じです。

ただ、繰り返しますが、その診療の質は全く異なります。

重要なのは、人財として評価できるか否かということになります。

 

生産性

次に、生産性の話を書いてみようと思います。

生産性が特に日本人は低い、という話を少ししました。

これは、臨床現場を見てもらえればわかりますが、体を動かしていないと不安になるような現象に等しいです。

本来は、躰ではなく首から上を使って働く必要があります。

考えることを放棄しない

つまり「考える」ということです。

ところが、実際の医療現場では考えているふりをして、1日を無駄に過ごしている事も珍しくありません。

医療におけるジレンマとして、パターナリズムの一部でもあるのですが、この患者さんを良くしたいという側面があります。

ところが、知識不足により現在良いかどうかわからない、下手したら悪いことが証明されている日本独自の治療を行ったりすることもあります。

ここまでいくと、国家資格や専門資格の意義が問われますが、実情はそんな感じだと思っています。

しかも、知識として欠如しているのでそれが悪いということにすら気づいていないこともしばし見受けられます。

職種ではなく人を見る

躰を動かしていることに比例して、お金がもらえるというシステムは「その人」ではなく「職種」としてしか認識されていなと言わざるを得ないのではないでしょうか。

米国では、地位や行為の1つ1つにおいて、報酬を受けることができるようです。

一方、日本の場合はいくらカテーテルを入れても、手術をしても月給はたぶん変わりません。

成長するのはサラリーではなく、自分のスキルだけです。

そういった観点からは、医療現場の報酬制度は遅れているということと、診療報酬制度によりあぐらをかいているのかもしれません。

 

教育

次に教育の在り方について書いてみようと思います。

よい教育病院は、自分自身で判断し実践することができる範囲が広い病院であると言えます。

勉強すればするほどに、自分の実践可能なエリアが増えていきます。

内科をホントに極めれば、多くの診療科をカバー可能になります。

当然、専門的治療領域までカバーするというのは困難です。

しかし、少なくともすごく特殊な検査を要さない「診断」においては、かなり広い範囲をカバーすることは可能です。

臨床・研究・教育

大学病院に限りませんが、教育・臨床・研究が3本柱とされています。

個人的には、この中の1つだけというのは片手落ち感が否めません。

というのも、研究を自ら行わなければ自分たちが読む研究論文のホントの欠点や苦労に関してはわからないからです。

さらに、振り返る事も研究の一部です。

データは正直

自分たちの臨床能力というのは、データが示してくれます。

例えば、重症コロナの生存率や社会復帰率などとしましょう。

では、あなたの病院はどうだったのですか?と問われた時にどうしましょう。

印象としては・・・と言っているようでは、話になりません。

きちんと何%の生存率で、などのデータをもとに考察した結果を伝える。

この辺が、ディスカッションと言われる所以なのではないでしょうか。

臨床力に関しても同じで、研究論文を読み込まなければなりませんし、自分たちのデータを振り返る必要があります。

例えば、院内感染が多いのであれば、何故院内感染が多いのかという仮設が立ちます。

データは正直です。

その結果、手洗いが不足してたという結果になった時、どれだけの人が適切な手洗いをしていたか、という議論になるはずです。

臨床経験が長いほどに教えるのが下手になる人も

臨床経験が長くなるほど、教育が下手になる人がいます。

だんだん、自分ができなかった当時の事を忘れてしまうのです。

そうなると、なんでこんな事もできないんだ、となります。

その結果、自分でやったほうが早いという結論になり、何でも自分でやろうとします。

普段の臨床現場では、それで十分に回るでしょう。

しかし、有事の際にはこれではとてもじゃないけど回りません。

何故か?

自分で判断し実践できる人財をを育てる

それは、自分で判断して実践する教育を受けていないからです。

そして、自分で判断して実践するということには、リスクが伴います。

知識が不足していれば、患者さんは亡くなってしまいます。

下手なことはできないのです。

自分で進んで勉強する様になれば勝ち

だからこそ、自ら進んで勉強するようになります。

教育とは、1周回ると自分で勉強するようにさせるために教育しているようなものです。

守破離

守破離という言葉があります。

まずは、教えられたとおりに、次に自分なりにアレンジを加えて、最終的には自分なりの方法でアプローチするようなやり方です。

ところが、大学病院などの大病院では、守破離の守すらもままならない状況です。

ただの人材ではなく、未来の医療を担う人材なのだと早期から自覚させ、チームの一員であることを認識させることが必要なのです。

そうなれば強いです。

どんどんカイゼンのための意見が出て、その結果をデータで示し、その結果をもとに教育が変わっていきます。

そんな病院になったら良いと思いませんか。

まとめ

人材は財産、つまり人財

人財を活かすも殺すも、教育者にかかっている

教育者は、人財の主体性を尊重すべきだが、常に見張って安全なゾーンからはみ出さないように見守る必要がある

データは正直なので、研究・臨床・教育は相互に依存している

臨床だけできる、という人は存在しない

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