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看護研究
看護の世界でも他分野と同様、研究が行われます。
その研究の呼称は「看護研究」と呼ばれます。
何故、看護における研究だけ「看護研究」となるのかは、わかりません。
慣例的に看護の世界では、そのように呼称されています。
看護師は看護を特別なものとしている
多くの看護師は「看護とはこのようにあるべきだ」という自己概念が存在しているように思います。
その概念を、多分野にまで強要することも多くあります。
看護とは、おそらく多くの看護師が、実態のないものとして捉えているように思います。
形而上学的とも言えるかもしれません。
実態の無いものの概念を捉えるのは、普通の人(理系脳とでも言うのでしょうか)にとっては、とても難しいものとなります。
ナイチンゲールの功績
もはや、常識とされているかと思いますが、看護の祖ともいえる、ナイチンゲール氏の最大の功績は「看護に統計学を導入した事」です。
清潔な環境や換気など、現代の新型コロナウイルス感染症にすら、実践的といえる介入を行った事で、戦時中の負傷者の死亡率を軽減させています。
つまり、統計学は嘘をつかないと言えます。
また、古典的な戦略であればあるほど、その効果は未来永劫変わる可能性は低いものであると思います。
例えば、薬剤に関しては、新しい薬剤が出ますが、清潔な環境などに関しては、今後どれだけ清潔の概念が浸透したとしても、変わることは基本的に無いと思います。ゼンメルワイス氏が手洗いの功績により、産褥熱が改善したように、現代でも手洗いは最も基本的かつ最も効果的な感染症対策における、基本戦略です。
我々看護師は、ナイチンゲール氏より、何を学ぶべきかと言われれば、看護に統計学を導入した事を学ぶべきであり、その効果は現在と過去との比較もできますし、未来との比較も可能です。
つまり、何が良いことで何が悪い事なのかを、真摯に検討する労力こそが、最も多くの患者さんを救うことになるのだと思います。
看護とは、慈愛の精神だけではやっていけるものではありませんし、それだけで看護を実践している方は、多くの患者さんに対し、不利益となる看護実践を行っているものと思われます。
質的研究と量的研究
看護研究の多くは、質的研究と呼ばれるものです。
質的研究とは、量的に検討困難な場合に行われる場合に行われることが多いです。
量的研究
量的とは、いわゆる無作為化比較試験(RCT)が代表的です。
例えば、たくさんの被験者を2つの群に分けて、1つは効果があるとされる薬を投与、1つはプラセボと言われる偽薬を使用して検討されるものです。
それら、2群の間で統計学的に、差があるのかを検討します(厳密に言うと違います)。このように、量的と呼ばれる研究は数を集めて、集団における有効性を検討するのが、現代における最も根拠のある研究手法ということになります。
質的研究
一方質的研究とは、量的に行うことが困難な、内容を扱います。
例えば、「看護師は何故早期退職するのか」というテーマですと、沢山の人にアンケートを行って、それらを集計して、退職に至った内容を検討するのは、量的です。
一方、少人数に対して、人間関係の問題であれば、それをもう少し深く掘り下げてインタビューなどを行い、人間関係における何が問題であったのか、といった事を検証するのが質的研究と言えるのではないでしょうか。
とはいえ、質的研究を行ったことがないので、実際のところ、よくわかりません。
質的研究とは、そのような観点から、とても掴みどころの無いものともいえます。
また、個々のケースを対象とする事になりますので、一般化も困難と言われています。
研究とは一般化可能性、つまり再現性が必要とされていますが、その概念が通用しないものになるので、難しいと個人的には忌避してきました。
けれども、いろんな検討を検証しようとすると、やはり質的研究でしか、検討できないことも多くありますので、これからのテーマであると感じています。
研究の種類
一般的な研究
研究にも沢山の種類があります。
例えば、先に紹介しました、無作為化比較試験が代表的です。
無作為化比較試験(RCT)の中でも、一般化可能性を高めるために必要なのは、多施設研究であることは大前提であると言えます。
さらに、多施設も数が多いほど、一般化される研究になりえます。
さらにさらに、多国籍であれば、人種により効きにくい/効きやすい薬などの検証が可能となりますので、より根拠の質の高い研究ということになります。
もっと詳細に検討するのであれば、対象薬がプラセボ(偽薬)であるとか、盲検化(ブラインド)さているとか、製薬会社との関係が無いとか、いろいろあります。
研究者達は、その様な障壁をなるべく少ない労力で検討するために、研究計画を行います。
少ない労力とは、期間であったり、研究対象者であったり、です。
期間は少ない方が良いのですが、対象者が不足しますので、多施設で行ったほうがよいですし、多施設研究では一般化可能性の観点からも質は随分と向上します。
研究対象者もより多い方が、研究の質自体は向上しますが、過去の研究より最低限必要な人数を最初に決めておく必要があります。
だらだらと、研究を続けても良いことはありませんので、最低限の収集人数で済むように事前に過去のデータより、必要人数を算出する必要があります。
各施設における研究
日本の学術集会の多くは、登録された演題のほとんどは、掲載されます。
当施設における〇〇などが、代表的です。
このような、研究に意味があるのかと言われれば、疑問です。
けれども、Quality indicatorとしての検討なのであれば「あり」なのではないかと思います。
Quality indicatorとは、質の提示です。
例えば、当院における入院期間であったり、人工呼吸器使用期間であったりなどです。
他には、コストであったり、要はなんでもありなのだと思います。
そのような研究を行った結果、が大きな問題であると個人的には思います。
研究は何のために行われるのか
学術以外での目的
看護研究であれば、旅行が目的である場合もあります。
多くの病院は、学術集会での発表の場合は、旅費が出ることが多いです。
施設によっては、旅費や参加費は出ませんので、どのあたりまで研究者学術支援を行うのかというのは、施設の余力や方針に左右されるものであると思います。
個人的には、旅行が目的でも全く構わないと思います。
勉強もそうですが、ときに不純な動機により、思ってもいなかったような成果を出すこともあります。
例えば、外国人を好きになった場合は、必死に外国語を勉強して、その人とコミュニケーションをとるために、外国の歴史や観光など様々な知識を蓄えることが可能となります。
勉強とは、全ては興味の程度に依存すると思います。
興味がなければ、勉強しても身になるものにはなりません。
医学生が勉強して、国家試験に合格しても、臨床現場にでたばかりでは、即戦力にならないのと同じです。
自分の中でテーマを持って、勉強するからこそ、身につき使えるものになっていきます。
利用可能性ヒューリスティクス
一方、臨床現場での体験は、ときに誤った解釈を来すこともあります。
行動経済学で「利用可能性ヒューリスティクス」と言われるものがそれにあたります。
例えば、1例インフルエンザ様症状の心筋炎を経験した際には、次から全例に心電図検査を行ったりするようなものです。
これは、飛行機事故と似ています。
飛行機事故では、「重大さ」と「頻度」は本来別に議論されるべきであるはずです。
ですが、飛行機事故はそのインパクトが大きすぎますので、重大なニュースとなります。
でも実際は、飛行機事故で亡くなる方の数は、交通事故でなくなる方の比較にならないほど多くの方が亡くなっています。
それ故、飛行機は世界一安全な乗り物とされている所以です。
先に例えた、インフルエンザ症状での心筋炎の症例では、この飛行機事故に似ています。
しかし、医療と飛行機事故とは決定的に異なる部分があります。
それは、事前確率があるということです。
飛行機の場合は、天候や機材の不備により、事故を来す事前確率が高い場合は、フライト自体を中止する苦渋の決断ができます。
けれども、医療においては目の前の患者さんからは逃げることはできませんので、心筋炎らしさを振り返り、検討することで次に活かすことが可能となります。
しかし、一旦経験した重大な有害事象はなかなか払拭することはできませんので、個人としての経験値により、同じ患者さんをみた場合でも、医師により多少の診断・治療戦略は異なる事も生じます。
一概に、エビデンスとはいえ、そのような背景も個々人でありますので、必ずしもエビデンス一辺倒には行かないのが臨床の医療現場であると言えます。
しかし、エビデンスベースドメディシン(EBM)と呼ばれるものは、目の前の患者さんに現存するエビデンスを応用するものです。
そのため、目の前の患者さんというのは、それぞれの特色や背景が異なりますので、まったくもって同じ治療選択にならないということは、当然といえば当然なのです。
クオリティとしての研究
当院における〇〇は、エビデンスや一般化の観点からは、必ずしも良いとは言えませんでした。
しかし、自分たちが行ってきた臨床のプラクティスは、必ず振り返る事が必要になります。
個々の症例での振り返りですと、先に述べたようにそれぞれの有害事象などで、適宜行われているとは思います。
しかし、後方視的に検討した結果を吟味するというやり方は積極的には行われていないように思います。
エビデンスとは、分かっていてもそれを実践できなければ、意味の無いものとなります。
例えば、質の高い臨床ガイドラインが出たとします。
その結果、臨床のプラクティスを変えなければならない、変更点があったとします。
しかし、全体的なデータとして、全体的に振り返らなければ、質の高いガイドラインに準じた治療を行っていないということになります。
けれども、これは「当院における〇〇」のようにデータを収集しなければ、全体の質の提示は困難です。
通常学術集会での発表や、論文としてアクセプトされたものは、新奇性が求められます。
けれども当院における〇〇のように、過去のデータを提示されても、そうですか、で終わりになります。
そのため、ただのデータの提示だけあれば、このような学術的な場での公表はふさわしくないと思います。
けれども、自分たちの実践を振り返るためのデータ集積であれば、意味を持つものになると思います。
厳密に言えば、研究とは言えないかもしれませんが、一応1種の研究に含まれますので、データを振り返るということは、現存する根拠と併せて吟味することで、よりよりプラクティスを行う上では、絶対的に行うべきだと思います。
また、医師やチームにより、方針が全く異なるようであれば、それは現存するエビデンスに則っていないということになりますので、それはそれで、ある特定の医師やチームが根拠のない実践を行っているという事をしり、時と場合によっては是正を促す事にもなり、その結果質の高い医療の提供が患者さんへ可能となります。
研究は臨床のプラクティスを変えるか
おそらく、世の中のほとんどの研究結果は、臨床実践の結果に影響を与えていないと思います。
けれども、先程述べた理由により、自分たちが行ってきた実践は振り返り、公表することで、患者さんにも還元可能となります。
また、研究をするということは、その分野における論文は一通り目を通す事となりますので、勉強にもなります。
勉強とは、アウトプットが重要ですので、研究のために読む論文というのはとても効率が良いものであると思います。
ですので、自分たちの実践内容を内省し、その結果を吟味し臨床にアプライすることで、全てがうまく回る、はずなのです。
まとめ
研究は大事です
研究すると、論文を沢山読む必要があります
今まで気づかなかった視点が身につきます
看護研究は、単純に臨床研究にしましょう
何より、自分たちの行ってきた臨床実践の振り返りになります