救急科 診療科

気管挿管でのエトミデートとケタミンの比較

1. Introdcution

もしあなたや大切な人が、重い病気や怪我で意識を失い、呼吸を助けるために緊急の気管挿管が必要になったとしたら、医師が選ぶ「麻酔の導入薬」がその後の生死に影響するかもしれない、と考えたことはありますか?
集中治療の現場では、毎年世界中で1300万人を超える重症成人がこの緊急気管挿管を受けています
そして、残念ながらその約30%もの患者さんが、退院前に命を落としています
気管挿管を行う際、患者の安全を確保するためにほぼ必ず麻酔導入薬が使用されますが、この導入薬を「エトミデート」と「ケタミン」のどちらにするかという問題は、長年、集中治療や救急医療の専門家の間で最も激しい議論の一つでした
この論争に決着をつけるべく、米国で行われた過去最大規模の無作為化比較試験(RSI試験)の結果が、2025年12月9日に発表されました。
今回の研究は、私たちが重症医療に対して抱いていた従来の常識を覆す可能性があり、導入薬の選択が本当に死亡リスクに影響するのかという、非常に重要な疑問に明確な答えをもたらしました
 

2. 研究の背景

なぜ、たった一回の気管挿管に使う麻酔薬が、それほどまでに議論の的になっていたのでしょうか。
これまでの常識と、それぞれの薬にまつわる問題点を見ていきましょう。
 
エトミデートの「闇」:コルチゾール抑制の懸念
エトミデートは、その効果が速やかに現れ、血圧や心拍数への影響が限定的であるため、重症患者にとっては理想的な導入薬として、米国で最も頻繁に使用されてきました
 
しかし、エトミデートには決定的な懸念がありました。
それは、この薬が副腎(腎臓の上にある小さな臓器)の働きを阻害し、ストレス応答に不可欠な「コルチゾール」というホルモンの産生を、たった一回の投与でも最大72時間も低下させてしまうという点です
 
この「エトミデートによる副腎皮質ステロイド不全」が、特に敗血症にかかった患者さんの臓器不全や死亡を引き起こすのではないか、という強い懸念が生まれました
実際、この懸念から、一部の規制当局はエトミデートを市場から撤退させるという決定を下すに至っています
 
ケタミンへの期待:血圧を維持する代替薬
エトミデートの懸念が高まるにつれて、代替薬として注目を集めたのがケタミンです
ケタミンは、コルチゾール産生を阻害しない「解離性薬物」であり、投与すると体内のカテコールアミン(アドレナリンなど)の濃度を上昇させることが知られています
この作用により、ケタミンは他の導入薬よりも、緊急挿管中に患者の血圧(血行動態)を安定させやすいと考えられてきました
そのため、一部の専門家は、血圧が不安定になりがちな敗血症患者などに対して、ケタミンを積極的に推奨していました
 
しかし、ケタミン自体にも、心臓の収縮力を弱めたり血管を拡張させたりする作用があり、過去の観察研究では、挿管中の低血圧や不整脈、さらには心停止との関連が示唆されていました
こうした相反する知見と、既存の小規模な臨床試験の結果がバラバラであったため、「結局、どちらの薬が患者の命を救うのか?」という核心的な問いは未解決のままでした
この不確実性を解消するために、本研究(RSI試験)が実施されたのです
 

3. 研究の方法

このRSI試験は、重症患者の気管挿管における導入薬の選択が、患者の転帰(結果)にどう影響するかを調べるための、多施設共同無作為化比較試験として実施されました
どのような人を対象にしたのか?(P:患者)

対象者:

米国内の14か所にある救急部門(ED)および集中治療室(ICU)で、緊急気管挿管を受けることになった重症の成人患者
 

人数:

合計2365人という、非常に大規模な人数が対象となりました
 

患者像:

患者の重症度は非常に高く、中央値で60歳、約半数(46.7%)がすでに敗血症または敗血症性ショックの状態にあり、22.0%が登録前に血圧を保つための血管作動薬を投与されている状態でした
どのような治療を比較したのか?(I/C:介入/比較)
患者はランダムに、以下の2つのグループに分けられました
 
1. ケタミン群:麻酔導入にケタミンを静脈内投与(1176人)
2. エトミデート群:麻酔導入にエトミデートを静脈内投与(1189人)
 
評価した重要な結果は何か?(O:アウトカム)
研究チームが最も重要視したのは、以下の2点です
1. 主要評価項目(生死):ランダム化から28日目までの、あらゆる原因による院内死亡の発生率
2. 副次評価項目(合併症):気管挿管手技中(導入から挿管成功後2分間まで)に発生した心血管虚脱の発生率。心血管虚脱とは、「収縮期血圧が65 mmHg未満になる」「血管作動薬の新規投与または増量が必要になる」「心停止が発生する」のいずれかを指します
 

4. 驚きの結果:ケタミンは「救命率」を上げず、「合併症」を増やした

この大規模なRSI試験によって明らかになった事実は、長年の議論に決着をつけるとともに、従来の予想を裏切るものでした
 

1. 死亡率は、ケタミンでもエトミデートでも変わらなかった

エトミデートが副腎抑制を通じて死亡リスクを高めるという懸念がありましたが、この大規模試験では、どちらの薬を使っても、患者の生死に統計的に有意な差は見られませんでした
 
ケタミン群の院内死亡率(28日目まで): 28.1% (1173人中330人)
エトミデート群の院内死亡率(28日目まで): 29.1% (1186人中345人)
 
両群の死亡率の差はわずか-0.8パーセンテージポイントであり、統計的な意味合いを持つ差ではありませんでした(P=0.65)。敗血症や敗血症性ショックの患者さんに限って分析しても、ケタミン群(38.8%)とエトミデート群(38.2%)で差はありませんでした
これは、「エトミデートを使うと死亡リスクが上がるため、ケタミンを選ぶべきだ」という過去の強い懸念や一部のガイドラインの推奨が、少なくとも死亡率という観点においては、この大規模なデータで裏付けられなかったことを意味します
 

2. ケタミンは挿管中の心血管合併症リスクを高めた

多くの専門家が「血圧を安定させるはず」と期待していたケタミンでしたが、結果は逆でした。
副次評価項目であった挿管中の心血管虚脱(深刻な血圧の不安定化)の発生率は、ケタミン群の方が有意に高いという結果が出ました
ケタミン群: 22.1% (1176人中260人)で発生
エトミデート群: 17.0% (1189人中202人)で発生
その差は5.1パーセンテージポイントであり、ケタミンを使用した方が心血管虚脱の発生リスクが高いことが示されました
 

3. 低血圧や心室頻拍(不整脈)がケタミンで増加

心血管虚脱の内訳を詳しく見ると、ケタミンがなぜ血圧を安定させると考えられていたかという従来の認識と、強く矛盾する結果が示されました
血管作動薬の新規/増量投与: ケタミン群 (21.3%)、エトミデート群 (15.9%)
最低収縮期血圧: 中央値はケタミン群が112 mmHg、エトミデート群が118 mmHgでした
重度の低血圧(80 mmHg未満): ケタミン群 (14.4%)、エトミデート群 (10.6%)
心室頻拍(重篤な不整脈): ケタミン群 (1.0%)、エトミデート群 (0.2%)
つまり、ケタミンは期待された「血行動態の安定化」をもたらすどころか、低血圧や血圧維持のための強力な薬剤(血管作動薬)の必要性、さらには危険な不整脈(心室頻拍)の発生率を高めていたのです
 

4. 特に重症度の高い患者ほどリスク差が顕著

この心血管虚脱のリスク差は、もともと状態が不安定な患者群でより顕著でした
敗血症または敗血症性ショックの患者: ケタミン群の心血管虚脱の発生率は30.6%で、エトミデート群(20.9%)よりも9.7パーセンテージポイントも高くなりました
重症度が高い患者(APACHE IIスコア20以上): ケタミン群(31.4%)はエトミデート群(20.7%)よりも10.7パーセンテージポイント高くなりました
これらの結果は、「重症だからこそケタミンを選ぶべきだ」という従来の考え方に、真っ向から疑問を投げかけるものです
 

5. 日常生活への応用:この結果を受けて、私たちは何をすべきか

この大規模なRSI試験の結果は、一般の人々にとってどのような意味を持つのでしょうか。
この研究が最も明確にしたメッセージは、「エトミデートを使っても、ケタミンを使っても、28日目までの生死には差がない」ということです
これは、エトミデートの副腎抑制作用を過度に恐れ、その使用を避ける必要はないことを示唆しています。これまで多くの医師が、死亡リスクの上昇を恐れて、血圧の安定性が低い導入薬(今回の結果によればケタミンも含む)を使わざるを得ない状況がありましたが、この試験はその状況を変える可能性があります。
もし、あなたや家族が緊急挿管を受けるような事態になったとしても、医師がエトミデートを選択したからといって、その選択が死亡リスクを高めるのではないかと過度に心配する必要はない、という安心材料につながります。
重要なのは、挿管処置そのものの合併症リスクです。本研究は、挿管処置中の血圧低下や、それを防ぐための追加処置(血管作動薬)の必要性が、エトミデートの方がケタミンよりも低いことを示しました
つまり、「挿管中の心臓への負担を最小限に抑えたい」という観点からは、エトミデートは優れた選択肢であり続けると言えます
私たち一般の患者としては、救急や集中治療の現場で、医師が確立されたデータに基づき、患者さんの状態を考慮して適切な薬剤を選択してくれることを信頼する根拠が提供されたと言えるでしょう。
 

6. 注意点と限界:過信せず、研究の背景を理解する

RSI試験は非常に大規模で信頼性の高い結果をもたらしましたが、いくつかの限界点も理解しておく必要があります
 

外傷患者は除外されている

本試験は、外傷(交通事故や転落など)を主診断とする患者を意図的に除外して行われています
したがって、外傷による緊急挿管が必要な患者に対して、この結果をそのまま当てはめることはできません
 

非盲検試験である

この試験では、患者をどちらの群に割り付けたかを、治療にあたる医師や研究スタッフが知っていました(非盲検)
これは、導入薬の投与量や、挿管後の血圧低下を見た際の血管作動薬の投与タイミングなど、医師のその後の治療判断にわずかながら影響を与えた可能性は否定できません
 

他の導入薬との比較ではない

この研究は、あくまで「ケタミン vs エトミデート」の比較であり、プロポフォールやベンゾジアゼピンといった他の麻酔導入薬の有効性や安全性について情報を提供するものではありません
ただし、この試験は、以前の無作為化試験全てを合計した数とほぼ同等の患者を登録しており、重症患者、特に敗血症患者における導入薬の選択に関する議論に、非常に強力で新しいエビデンスを提供したことは間違いありません
 

7. まとめ

今回のRSI試験の結果は、緊急気管挿管というクリティカルな状況下で、私たちが長年抱いてきた「導入薬の選択が直接的に患者の生死を分ける」という単純な仮説を否定しました
最も重要な発見は、死亡率には差がない一方で、ケタミンは挿管処置中の心血管虚脱(低血圧や血管作動薬の使用)のリスクをエトミデートよりも高くするという事実でした
この研究は、導入薬を選ぶ際の医師の判断基準に、大きな変更を迫るものです。エトミデートが死亡リスクを上げないことが示された一方で、挿管中の合併症リスクが低いという利点があることが確認されました。
重症患者の救命は、一つ一つの処置でいかに合併症を防ぐかにかかっています。この研究は、導入薬の選択において、生死そのものよりも、手技の安全性を高めることが重要であるという教訓を私たちに与えてくれました
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