結論
- 測定なくしてカイゼンなし
- 研究のない組織の臨床実践能力は低い
- 色んな疑問をもち、前進していることを認識するためにデータを活用する
- そもそも、看護だけ看護研究なのは意味不明
看護研究と臨床研究
看護師が行う研究には、看護研究があります。
看護研究とは、看護師が行う研究ですので「看護研究」と呼ばれています。
臨床家としては、どこに目線があるのかというと、患者さんです。
例えば、看護の視点から患者さんのアウトカムをカイゼンさせるべく、研究という手法を用いることになります。
医療現場は、国家資格を持つ専門家集団です。
その中心が、医師と看護師です。
他には、薬剤師や栄養士などなど、他にもたくさん資格は存在します。
ところが何故か看護師だけ、看護研究と呼ばれています。
他の職種は、薬剤師研究とか栄養士研究というものは、寡聞にして知りません。
先にも書きましたように、医療の専門家はそれぞれの目線から患者アウトカムをカイゼンするために研究を行います。
看護師だけ「看護研究」になるのは、謎としか言いようがありません。
すべては「臨床研究」で良いはずです。
だれが行った研究であろうとも、研究者や臨床家は、質の高い論文の結果だけをアプライします。
つまり、結果だけがすべてという事です。
測定なくしてカイゼンなし
医療現場には、臨床だけやっていればいいという人がたくさんいます。
これは、学術的に本来高い地位にある医師ですら同様です。
例えば、外科医であれば手術を繰り返します。
来る日も来る日も繰り返します。
けれども、振り返ることがなければその手術の妥当性というものには疑問符がつきます。
たとえば、手術の適応なども同様ですし、自分の手術の結果も国際的に妥当性を伴う結果であるかということです。
このあたりは、測定しなければ死亡率などの「成果」を測定することは不可能です。
全ては、自分の感覚だけで臨床実践をおこない、自分の肌感覚を患者さんにアプライすることになります。
その結果は、正しいのかどうかといわれると、なんとも言えません。
1つ言えることとしては、「何もわからない」ということは言えます。
手術の合併症であったり、手術の症例数であったり、簡単にデータ集積可能なものであっても、データを蓄積し評価しなければ、何もわからないということになります。
例えば、気管挿管中の患者さんに身体抑制を行っていたとします。
そのプラクティスを、例えばガイドラインの推奨に伴い、抑制を廃止したとします。
その結果、自己抜管が増加したとします。
けれども、自己抜管の増加は単なる個人の肌感覚に過ぎません。
個人の肌感覚ほど危険なものはありませんが、逆説的ですがこの臨床的直感に助けれられることもあります。
統計とは、偶然に起こり得ない可能性が極めて少ない確率を示した場合に、有意とされます。
例えば、ナッツのケースにカシューナッツを9割いれて、残りはアーモンドを入れたとします。
良い感じにそのナッツを混ぜたとしても、アーモンドだけがたくさん出てくるということはありません。
偶然に、すこし多めに出ることはありますが、殆どはカシューナッツが出てくるはずです。
肌感覚とは、この辺と同じで、偶然アーモンドがたくさんで出てきたシチュエーションを体験した場合は、その記憶は強く残ります。
ただし、繰り返しますがカシューナッツ9割のケースから出されるナッツは、ほどんどカシューナッツしか出てきません。
この事象を俯瞰的に見れるのか、たまたまアーモンドがたくさん出てきたシチュエーションの1回だけを切り取るのかでは、全く測定の意味が異なります。
測定は、繰り返し行われることでその妥当性を担保します。
ダイエットを行うときは、まず現状の体重を測定します。
体重計が使えない場合は、腹囲で代用しても可能です。
これらの代用指標を、サロゲートマーカーと言います。
指標は、研究により妥当なアウトカムを用いますが、まずは何でもよいので測定を始めなければどこに向かえばよいののかもわかりません。
つまり、臨床家はこれららの測定とカイゼンとプランを繰り返す必要があります。
データは嘘をつきません。
研究というより質のカイゼン
個人的なおすすめは、研究というと敷居が高いので質のカイゼン程度にすれば良いと思っています。
何においても同じですが、まずは基準点を決める必要があります。
時間も同じで、世界中の標準的な時間を決めなければ、世界は機能しなくなります。
先程、ダイエットの例をあげましたが、まずは自分の体重を知ることからダイエットは始まります。
もちろん体重がすべてではありませんが、最もわかりやすい指標が体重です。
人によっては、腹囲でもよいかもしれませんが、体重と腹囲は相関関係にあるでしょうし、体重計に乗るだけなので最も簡便に現在の状態を客観的に評価できます。
現在の体重がわかれば、目標体重を決めることになります。
鉄則は、無理をしないということに付きます。
まずは、実現可能な目標を上げることが大事です。
月に1キロで良いのです。
ここで、次の障壁が持続可能性ということになります。
月に1キロ減量できれば、年間で12kgの減量になります。
ところが、多くの人はダイエットにまつわる行為を持続することが困難になります。
ここで、データの出番になります。
データを蓄積していけば、例えば歩く距離が減っていることがわかるかもしれません。
歩く距離が少なくなり、体重が増加傾向にある場合は、おそらく相関関係を証明できるはずです。
ところが、相関は因果ではありません。
因果を証明するためには、他の要因も集積する必要が生じます。
このように、疑問を持ち続けることが研究の大前提になります。
最初の議論に行き着くと、研究だけできる人はいると思います。
一方、臨床だけできる人はいないはずです。
それは、最初に書いたように、内省しなければ人は成長しないからです。
自分基準になってしまえば、もうそれ以降は何でもありというということになります。
いわゆる、PDSAというサイクル構築が必要です。
臨床実践では、スピードも重要ですので、OODAループという考え方もあります。
PDSAとは、Plan-Do-Study-Actを繰り返すサイクルのことです。
一般的には、PDCAといってStudyではなくCheckになっています。
このように、臨床にはStudy、つまり研究が必要と言えるのではないでしょうか。
前進しているのか?
繰り返しにはなりますが、臨床実践ばかりを行っていたとしても、自分ははたして前進しているのかはわかりません。
個人的な直感ですが、20年前には最高の医療に近いものが提供できているような気がしていました。
そして、現在はどうかというとそうでもないような気もします。
けれども、それはあくまでも「感覚」ですので、なんの根拠もない話ということになります。
前進しているのを認識するためには「データ」こそが重要になります。
単純な話ですが、ある特定の医師が介入したことで患者さんのアウトカムがカイゼンしたとします。
それは単純な前後関係にすぎませんが、アウトカムが改善したということは事実です。
アウトカムが前後関係でカイゼンしていれば、今度はその要因(因子)を分析しようということも可能です。
前進し続けるためには、データの集積と分析しか現時点ではありえないでしょう。
まとめ
- 研究なくして、臨床の実践はありえない
- 内省して実践して、その繰り返し
- この繰り返しを行えれば、すこしづつ全身できることを認識できる