Contents
はじめに
尾藤先生は、総合内科医として、疫学者として活躍されている方です。
普通じゃない感じが伝わってきます。
文章の構成も、スムーズですし、他の本を読んだときもそうですが、すっと自分の腑に落ちる感覚があります。
そんな本が、Kindle Unlimitedにありましたので、読ませてもらいました。
感想としては、全ての医療者はもちろん、患者さんに対しての医療へのアドバイスも随所に落ちていますので、医師ー患者関係を良好に保つためにも、双方のリテラシーを高めてくれる1冊になっていると思います。
インフォームドコンセント
インフォームドコンセントとは、「説明と同意」と日本語訳されています。
インフォームドコンセントに関しては、本が1冊書けるくらい奥の深いものです。
尾藤先生も、インフォームドコンセントの専門家です。
尾藤先生は、本書でこのように書いています
”インフォームドコンセントは、医療者が行う行為ではない”
基本的には、患者さんが行う行為ですが医療者の多くは、このインフォームドコンセントという、ごく一般的な言葉をときに間違って捉えているようです。
そもそもは、患者さんの権利を守るためのもののようです。
以前は、パターナリズム(父権主義)といって、医師は全てを自分の手中に収めるかのごとく、全ての意思決定を医師が行っていました。
そして、その意志に反するものは、治療を受けられないということが、つい最近の日本でも起きていますし、現代においても未だにそのような思想を持つ医師は多いように感じます。
そこに患者の意思は不在であり、患者さんの権利を守るために始まったものです。
医師の説明は分かりづらい
医師たちはホントに熱心に病状説明を行っています。
けれども、その多くは一方的であることが問題となっています。
患者さんにとっての知りたい情報に、フォーカスする努力が必であるといえます。
医師の多くの病状説明は、治療や診断に関する、患者さんにとっては、いわばどうでも良い話であることも見受けられます。
患者さんにとって、はそれが一方的であり、有益な内容では無いことも多いです。
本当に患者さんたちが知りたいのは、実は違うところにあることも多いです。
例えば、認知症の妻がいるので、その介護のために早く帰りたい。
溺愛している、ペットが居るので帰りたい。
孫の結婚式があるので、その日までに帰りたい。
など、です。
けれども、医師はこういう診断でこういう治療を行うので、入院が必要です、となりがちです。
病院は、非日常の空間です。
そのような空間ですので、一言で表現すると「つらい」のです。
非日常の空間にいるだけで、辛いのに毎日のように検査や治療が行われます。
そんな環境で、平静でいられるだけでもすごいと思うべきです。
毎日のように、検査や治療が行われると書きましたが、それも合意形成の基に成り立っています。
とはいえ、つらいものは辛いのです。
説明のゴールは、合意形成
合意形成とは、双方の合意が必要になります。
当然ですが、対話が必要です。
尾藤先生は、「医師の行う病状説明は、講義である」と言っています。
言い得て妙な表現なのですが、医師の病状説明の多くは、まさに講義である場合が多いです。
特に、若手の先生方に多いですが、年配の先生でも沢山いらっしゃいます。
そもそも、説明は何のために行うのかという部分にも触れる必要があります。
病院の場合は、患者さんの多くは「病気」の治療のために入院しています。
その病気の「治療」や「診断」のために医師は、説明を行います。
医療とは、まさに複雑です。
何にいくらかかっているのかもわかりませんし、言われた通りの額を会計で支払うことになります。
デパートやネットショッピングのように、自分で色々な選択を行うことができません。
以前なにかの本で呼んだのですが、どこかの国では心臓の弁が売店に売っていて、それを購入して手術を行うと書いてある本があったと記憶しています。
それはそれで、また極端なのですが、医療の複雑さ故に対話(説明と同意)のプロセスが重要になります。
例に挙げたように、この心臓弁はいくらで、これはいくらと、仮に売店に価格が表示してあったとしても、最も安い心臓弁を購入して、これでお願いします、というわけには行きません。
それは、また話が戻りますが、医療が複雑だからです。
複雑さの原点は、命に直結する選択を迫られることになります。
例えば、Amazonで15万円のテレビを購入したとします。
そのテレビが、保証期間が切れた1年後に故障したとします。
その時は、レビューにいわゆる文句を書いて、場合によっては新品のテレビ購入や修理をすることになります。
これが、心臓の弁置換の場合は、そう簡単にはいかないのです。
当然ですけど。
そのため、殆どはうまくいくのですが、ときにうまく行かない場合があります。
そのような状況の説明も含めて、対話が必要になります。
対話を極限まで突き詰めると、弁置換の例では、これだけ丁寧な説明を受けたし、疑問も全て質問したから、あとはこの先生に任せよう、というところまで来ることが、本来の対話の目指すべきところなのだと思います。
医師に任せるというのは、パターナリズム的であり、嫌う方もいらっしゃるかもしれませんが、最終的には専門家である医師に委ねるしか無いのです。
そのプロセスこそが、対話であり、結論として医師に任せるということになったとしても、その対話を通じて患者さんが納得して治療を受けることができれば、それはそれで良いのだと、思っています。
「おまかせします」は理解してもらえていない
尾藤先生は本書で、説明した患者さんに「おまかせします」といわれたら、その説明は伝わっていない可能性が高い、と書いています。
とくに、出会って間もない関係性の場合は、そう思ったほうがよいと書かれています。
よく、講義を受けた後「質問ありませんか」というシチュエーションがあります。
そのときに、何を質問したら良いのかわからない、という場面に似ているような気がしています。
個人的には、何か質問することは無いか考えながら、講義受けるタイプなのですが、興味のわかない話をされた時には、何を質問してよいのかわからない状態になります。
失礼かもしれませんが、看護師さんの説明に多いような気がします。
看護師さんは、熱心に新人看護師に対して、いろいろ教えてくれますが、勤務の終わりで質問無いですかと言って、「無いです」と答えられると、「ほんとに無いの」ということもよくあります。
これは、看護師さんが勤務の中で本来対話して、教えるべきだったことを、結局対話が無いために、一方的な講義形式となってしまったがために、新人看護師さんは何を質問して良いのかわからない状態になってしまいます。
説明は言ったら終わり、ではない
説明は、説得して解き明かすと書きます。
講義でもそうなのですが、「あの時いったよね」という方は結構いらっしゃいます。
わかるーできるー実践できるという、3段階あります。
その時は、説明を受けてわかったつもりになっていたのだと思いますが、実際はわかってすらいなくて、わかっていない事を当然できるわけもないですし、できなければ適切に実践することもできません。
説明を行った医師もおなじで、言いましたよね、ということはよくあります。
そして、対象者の認知機能やインテリジェンスの問題にしがちです。
けれども、本来は医師が分かるように説明しなかったのが、水掛け論の発端です。
病気のことを分かることなど、素人である患者さんには難しいのです。
だからこそ、納得していただくための対話が必要なのです。
医師と患者さんはわかり会えないという前提
これは、子育てでも同じです。
血が繋がっていて、かつ自分の溺愛する子どもですら、子育てしているとわかり会えないなと感じるものです。
当然、それが正しい認識なのです。
その発端はやはり、パターナリズム(父権主義)が元凶だと感じています。
自分の子どもだから、自分の都合に合うように躾をしたいなどという前提をまず、棄却することが必要です。
パターナリズムとは、全てを自分の手中に収めようといった概念です。
逆に言うと、パターナリズムは自分の子どもと同じように、心配しているから、私の治療方針には口出しをしないでくださいと言っているとも言えます。
ただし、そのプロセスは対話ではありません。
そのため対象が、子どもでも、患者さんでもパターナリズムは良くないのです。
自分の知らない世界のことは「わかりません」といえる態度が必要
このように、尾藤先生は仰っています。
0と1の間には、雲泥の差があるように、わからないことはわからないと認める態度が必要です。
エビデンスがあることは、目の前の患者さんに適用可能であれば、適用すべきだと思います。
ただし、エビデンスとして否定されたものではないこと、を真っ向から根拠がないからと言って否定する態度は好ましいことでは無いと言っています。
もはや、このあたりになると対話もそうですが、ナラティブ(ものがたり)になってきているような気がします。
患者さんは、一人ひとり歴史があり、いろんな物語があります。
お医者さん一人ひとりが、治療や診断の見解が異なるように、患者さんもそれぞれの見解は異なります。
その代表的なものが、民間療法と呼ばれるものです。
このあたりもまさに、根拠がないからと言って否定するのではなく、否定された根拠がないのであれば、患者さんとの対話により、サプリメントなどの服用などについては、ある程度寛容になっても良い気がしています。
エビデンスが無いからといって、それを間違っていると否定することは、医師ー患者関係を悪くするにしかなりません。
否定された患者さんは、あのお医者さんはわかってくれないということになりますし、お医者さんもあの患者さんはわかってくれないと、双方が交わることのない平行線が続くことになります。
冒頭からの繰り返しになりますが、医療とは命に直結する特殊な領域を扱う、専門家集団ですので、対話のない治療は不利益の方が大きいと思っています。
胃瘻不要論は、極論
本書の中でも議論されていました。
尾藤先生は、胃瘻は一概に悪者にされているけど、実は良い面もたくさんあるといいます。
良い面がたくさんあるという言い方は、語弊のある言い方ですが、どうしても胃チューブはよくて胃瘻は良くないという風潮があることに、違和感を感じます。
胃チューブの負担はとても大きなものになります。
実際に挿入してみるとわかります。
変な話、うどんをそのまま飲み込むのと同じ感覚です。
うどんよりもチューブは硬いですので、さらに違和感が残ります。
この違和感に24時間苛まれているのです。
消化器の手術後では、胃管が挿入されて帰ってきます。
多くの患者さんの願いは、この管をなんとかとってほしいという訴えはとても多い様に感じます。
術後の患者さんであれば、合併症がなければすぐに抜くことが可能です。
しかし、経口摂取が困難であることに対する、胃チューブの留置は終わりの見えない戦いです。
たいていそのような患者さんは、認知機能が不良な場合が多いです。
ということは、鼻のチューブが何のために入っているのか認識していないですし、説明しても注意力が持続しないので、すぐにチューブを抜いてしまいます。
抜かれても、さしあたって問題は無いのですが、再挿入やレントゲン確認の問題をはじめ、インシデントレポートの届け出などの負担を考えると、看護師さんは抜かれたくないものです。
そのため、身体拘束が強化されます。
胃チューブを抜きそうな方であるほど、身体拘束は強化されます。
そして、病院という空間がますます、非日常的空間になります。
非日常的空間は、特に高齢者では混乱をきたしやすくなり、不穏と言って暴れたりする原因になったあり、せん妄と言って注意力の欠如を伴う一過性の認知機能障害が出現することがあります。
せん妄をきたすと、注意力が持続しないので、注意しても注意の持続が続きません。
注意力がないということは、胃チューブの抜去を繰り返す可能性があるということになります。
せん妄の特徴は、個人的感覚では、歩きスマホを後ろから見た状態です。
歩きスマホは、前がみえていませんのでフラフラして、周囲への注意力が欠如しています。
そのため、後ろから追い越すことすらも難しいです。
つまり、歩きスマホには追い越す側も、注意力を持続させなければならないので、負担が増加します。
だったら、歩きスマホできないように、手を固定してしまうというのが、現代の医療における身体拘束の大義名分なのです。
身体抑制には、3つの場面が必要です。
- 非代替性
- 切迫性
- 一次性
基本的に、この原則に則らないものは身体拘束の適応外となります。
身体拘束をされるということは、本来誰でも嫌がるものです。
しかし、病院ではそれが当たり前になってしまっている風潮があります。
何でもかんでも、安全という盾を振りかざして、身体抑制を行うことが良いことなのかは疑問です。
そもそも、高齢者の入院患者さんが多いというのも、問題です。
どうしても加齢と共に、脳の機能は低下していきます。
脳の機能が低下すると、侵襲が加わることで容易にせん妄をきたしてしまいます。
そのため、今後は特に高齢者医療の主戦場は、在宅にシフトせざるを得ないでしょう。
在宅こそが、高齢者にとっては最もよい治療場所となり得るはずです。
100%の治療はできませんが、80%程度の内科的な治療であれば可能です。
医療費の増大、身体抑制というジレンマ、筋力低下、転倒などのリスク、医療スタッフの負担などを考慮しても、双方にとって良い選択肢となり得るはずです。
さらに、これらをリモートでつなぐことで、医師の遠隔診察も可能になります。
リモート診療は、Covidがもたらした恩恵とも言えます。
これを期に、一気にリモートワークの前進ができた病院はどのくらいあるのでしょうか。
そもそも、電子カルテシステムも紙ベースですので、医療においてはなかなか先進的な取り組みは難しいのが現状です。
とはいえ、身体抑制をしない選択というのは、様々な可能性を秘めていることになります。
特に高齢者においては、その患者さんが死なないことよりも、その人が生活する上で最も大切にしていることを叶えるための手助けも必要
尾藤先生は、このように言っています。
医療の80%はエビデンスが通用する世界ですが、残り20%は個人差が大きいものとなります。
高齢者の場合は、この割合が大きく異なります。
エビデンス3−4割と言ったところでしょうか。
もちろん、エビデンスも重視するのですが、例えば長期予後を目的に導入される薬剤は、通常必須であるべきですが、残りの寿命のことなどを考慮すると、その薬剤の導入や継続が必ずしも正しい選択とは言えません。
高齢者こそ、より対話が重視されるべきものであると感じます。
ただし、高齢になるほど脳機能は低下すると先に書いたように、事前にこれからのことを話し合う機会を持つべきです。
いざ、必要な選択をする場面で、本人の意思決定ができなということにもなりかねません。
このような話し合いの機会を、ACP(advanced care planning)と呼んでいます、日本語では通称「人生会議」と称されています。
人生の終わりに向けて、意識していない方やその家族は驚くほど沢山います。
このような、人生の終わりに向けての機会を持つことも、人生を有意義に生きるためにも必要な対話の1つであるように思います。
まとめ
インフォームドコンセントとは、対話であり、本来患者さんの権利を尊重するためのもの
インフォームドコンセントは、説明ではなく、対話である
病状説明は、講義にならないように、常に対話を重視する
医療は十全たるものではないからこそ、わからないことはわからない、だからこそ一緒に考える